分子生物学という、なんとも難しそうな内容の本にも関わらず、88万部も売り上げた本がある1。俳優の蒼井優さんが愛読書にしていることも話題になった2。『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書、2007)である。 なぜ、こんなにも広く受け入れられたのか。私は#1でも紹介した面白さの根元となる「現実的共感」がその本の中にあったからだと思っている。現実的共感とは、読者がさまざまなコンテンツの世界観に入り込み、そこから面白いと感じるかどうかの起点になるものである。現実では起こり得ないことでも読者が自分にとってリアルに受け入れられることだと思えば、その物語は面白いはずなのだ。今回で言えば、著者の福岡伸一が分子生物学とあまり生物学になじみのない読者のあいだにどのような現実的共感を組み込んでいたのか、探ってみたい。
動的平衡とは何か
『生物と無生物のあいだ』は、生きているとはどういうことなのか、身体の分子レベルで解説した本である。そこで登場する重要な考え方が「動的平衡」と呼ばれるものだ。福岡は、その考え方を以下のように説明する。
当たり前のように、今日も自分の身体がある。急に背が高くなったり、低くなったり、痩せたり、太ったりと、見た目は1日でたいして変わらない。しかし、もっとミクロに、分子のレベルで考えてみると、どうだろう。なんと半年から一年も経つと、私たちの身体を構成する分子はまったく新しいものに入れ替わっているという。それは丸々と太ったお腹の脂肪ですら!私たちは食物から必要な分だけ栄養を摂取し、使い終わったら捨てるのではなく、身体の分子をあらゆる場所で、しかも猛烈な速さで随時入れ替えながら生活している。いわば分子の“流れ”のなかにあり、一時“淀む”ことで存在しているのが、私たちの身体なのだ。
なぜ、こんなことをしているのだろうか。それは、身体の分子が劣化してしまう前に体外へ排出しなければ、生命を維持していけなくなるからだ。私たちの身体の秩序(平衡)は、分子の積極的な入れ替えにより(動的)、保たれている。
動的平衡という生命の営み。それはとても驚きに満ちていて、読者を引き付けるには十分だ。しかし、福岡が描いた分子生物学の物語は、その事実をより際立つものに、そしてなにより読者を置き去りにしなかった。だからこそ、これだけ世に受け入れられた。 福岡が極めて入念に仕込んだ「現実的共感」があったからこそだと考えている。
分子生物学の観光客
ニューヨークはマンハッタン。物語はここから始まる。書き出しから情感たっぷりに街並みが描かれ、これから生物の話が始まるとはとても思えない。読者はまるで福岡に案内された観光客のようにマンハッタンを旅した後、ヨークアベニューと66番街が交差する場所に到着した。そこには、ロックフェラー医学研究所(現:ロックフェラー大学)がある。この物語の舞台になる場所だ。その構内の図書館には、野口英世の銅像がひっそりと佇んでいる。
野口英世は、幼いころの貧困や左手の火傷にもめげず、医学者として数々の研究成果を発表し、幾度となくノーベル賞の候補にもなった偉人である。その研究の多くがロックフェラー大学に研究員として在籍していた時に発表されていたことから、銅像が建てられていたのだった。日本でもその功績から、2004年に千円札の新紙幣として採用されている。(2024年、千円札の新紙幣は、北里柴三郎になる。北里と野口は、伝染病研究所の所長と助手の間柄だった。)
- 扶桑社「88万部超『生物と無生物のあいだ』の著者・福岡伸一先生が贈る! 生命の謎を追究する科学エンタテインメント」PR TIMES(https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000001099.000026633.html)2024年2月28日閲覧 ↩︎
- 門賀美央子『蒼井優「おもしろくって、もう6回ぐらい読んでいます。3回目からはノートに書き写したりもしました」』ダ・ヴィンチWeb(https://ddnavi.com/interview/196024/a/)2024年2月28日閲覧 ↩︎